雑記の更新頻度がズタボロで申し訳ございませんでした。
前回の更新が05月22日で、それから10週間ぶりの更新となります。
まとめの表
- 05月21日 機動戦士ガンダムジークアクスを2話までみて中断し最初のガンダムを1話から見返し始める
- 05月23日 commissionページと納品作品のページを作成
- 05月24日 いど子通信#32@twitch
- 06月07日 いど子通信#33@twitch 体調不良のため中止。
- 06月09日 新型コロナウイルスに罹患していたことが発覚。
- 06月10日 他人事ラジオ#23@youtube
- 06月12日 galleryコーナーにタグ機能をつける
- 06月13日 いど子通信#34@twitch
- 06月17日 年表のために「はちま起稿」の最初の頃をinternet archiveで延々見返す。
- 06月20日 いど子通信#35@twitch,youtube
- 06月29日 今日はなんの日botの作成を始める。3代目。
- 07月03日 Skebのリクエスト受付を再開。
- 07月09日 駿河屋で中古で買った「まじかる☆ひよりん」のぬいぐるみが届く。前から欲しかった。
- 07月10日 いど子通信#36@twitch
- 07月11日 ジークアクスを最終話まで観る。
- 07月12日 他人事ラジオ#24
- 07月15日 参院選の期日前投票に行く。やらかす。
- 07月17日 いど子通信#37@twitch
- 07月25日 いど子通信#38@twitch
- 07月28日 他人事ラジオ#25
- 07月29日 2025年下半期のテーマを決め、SNSのアイコンを変える。
最近の感じ
前々回の更新が03月、前回の更新が05月後半なので、更新の間隔が空いてしまいました。例によって更新しようと思ってたんですけど、気づけば時間が経っていて......。
前回のまとめの表と見比べてもらえるとわかるんですが、最近いろいろなことのやる気が出ず、SNSの更新も少なくなってしまっています。
というかこれも毎回こんなこと書いてる気がするな。2025年も半分過ぎてしまったわけですが、虚無に飲み込まれてしまったような気分です。
わたしの2025年の半分はどこにいってしまったのでしょうか。もう半分も気づいたら失われてしまうのでしょうか。助けて!
持っててうれしいものについて
07月09日に、駿河屋のネットショップで買った中古のぬいぐるみが届いた。「まじかる☆ひよりん」のぬいぐるみである。
まじかる☆ひよりんはアダルトゲームソフト『みずいろ』のヒロインが『ねこねこファンディスク』で魔法少女姿で登場した姿のことをいうらしい。正直にいえば、元ネタのエロゲ『みずいろ』も『ねこねこファンディスク』もよく知らない。
なぜ私がよく知らないエロゲのヒロインのぬいぐるみを、しかも中古で買わなければならなかったのか。それは、あるネットミームにこのぬいぐるみが登場するからだ。

この画像を皆さんはご存知だろうか。2006年01月15日に2ちゃんねる大学生活板のあるスレに貼られた画像が元とされている。
写っているハンドルネーム「雪の降る町」から「雪の降る町の画像」などとも呼ばれるこの写真は、2ちゃんねるなどで度々痛いオフ会の写真として話題となり、現在でも語られるネットミームとなっている。
書き込まれたハンドルネームと写真に映る人物との組み合わせが面白く、「雪の降る町」をはじめとして「ハデス」や「ネギさま」、「こまち」、「心理」が話題になっているところを見かける。この画像を見たことがある人も多いはずだ。
この画像自体についてはこれ以上語らないが、最右の人物「戦場のオナニスト」が手に持っているぬいぐるみに注目してほしい。そう。あのピンク色の髪のぬいぐるみこそが「まじかる☆ひよりん」なのだ。
実は、結構前からこのぬいぐるみがほしいと思っていた。予定はないが、もしオフ会があれば持っていけば確実にウケるし(SNSを見ていると、所持者はこのぬいぐるみをオフ会に持参することが多いようだ)、そもそもすごく有名というわけではないが根強い人気のネットミームに映り込んでいる、あまり名前が知られていないぬいぐるみを持っているということ自体がなんだか楽しい。
たとえばこれが、「心理のシャツ」だったらどうだろう。あのシャツ自体はどこにでも売っていそうだし、見た目に特徴があるわけではない。オフ会に心理のシャツを着ていって、「これは実は心理のシャツです」と明かせばウケそうではあるけど、特徴がない分だけ満足感が生まれない。元の写真を知っていても覚えていなければ意味がないのだ。
対して、「まじかる☆ひよりん」はどうだろうか。「戦場のオナニスト」が手に持っていた例のアレ。特徴がある分だけ、元の画像を見ていればなんとなく記憶に残っているだろう。そこで「戦場のオナニスト」の名前を出せばすぐにコレがアレかと思い出せる。
あらためて、届いたぬいぐるみについて語ろう。
実物を見るとわかるが、髪や服がフェルト生地でできていて非常に安っぽく、キャラの表情もかわいいといえるほどのものでもない。エロゲのニッチなぬいぐるみとしては必要十分なクオリティかもしれないが、一方で現在こういう需要に見合うグッズを作るとしたら、価格を高くしてよりクオリティを高くするだろうな、という印象を抱かせる。エロゲという元のコンテンツも含めて時代を感じるアイテムだ。
私がこのぬいぐるみを買った理由は、端的に言えば、こうした「文脈」にある。それが感じられるのがうれしいし、持っていたら楽しい。
以前、落合陽一が「茶室」について語っていて、感銘を受けたことがあった。正確には思い出せないが、趣旨としては、「茶室の茶道具は高度な文脈のもと茶室の主人にキュレーションされ、その高度な文脈を理解した客人は『結構なお手前で』といえる。茶人はオタクみたいなものだ」というものだった。考えてみると、私にとってこのぬいぐるみは茶道具だ。
オタクにはいくつかの種類がいる気がする。特に、コレクションに関していえば、2種類に大別されるのではないか。つまり、「祭壇」を作るオタクと、「茶室」を作るオタクだ。
「オタク 祭壇」で画像検索をしてもらえれば分かる通り、現在のオタク文化において「祭壇」とは、自らの「推し」に関するグッズを大量に集めて、推しの尊さを拝むために一箇所に並べたものを意味する。少なくとも現在は推し活文化のひとつと理解されているだろう。
一方で、「茶室」を作るオタクはどうだろうか。既製品でも、同じ種類のグッズを大量に集めるようなものとは違う。「量」と「質」を対置してマウンティングするつもりはないが、茶道具のコレクションは量を集めればいいものではない。
茶道に詳しくないためすべては心の中の茶道のイメージでしかないが、たしかに茶道具は多ければ多いほど良いものではないし、例えば「最新の」とか「高機能の」みたいな価値で評価されるものでもない(茶人的には、「あえて」虹色に輝くゲーミングチェアを茶室に据える可能性はありうるだろうが)。強いて茶道のメタファーで共通点を挙げるなら、ハイコンテクストなものを理解し合うインナーサークルを前提としているとか、個々のアイテムよりその組み合わせが評価の基準になる、ということがいえるかもしれない。
茶室が宇宙だとするなら、オタクにとって茶道具や茶室の間取り、構成要素は、宇宙を彩る星座(コンステレーション)なのです。そして、だからこそ、茶室は宇宙と照応(コレスポンデンス)する。
ごめん。コレスポンデンスって言いたいだけだった。
まあともかく、なぜ私は中古のチャチいぬいぐるみをわざわざ買ったのか。このぬいぐるはどんな意味を持っているのか。それはつまり、茶人として、「まじかる☆ひよりん」を茶道具として手に入れた、ということなのだ。
茶室の比喩って、本棚についても同じようなことが言えるかもしれない。
サブカルオタクにとっての本棚も「茶室」的な意味を持っているように思える。本棚に並んでいる本は、所有者の知識と興味を、つまりサブカルオタクにとっては自身のアイデンティティを反映する。そのため、本棚はオタクの品定めに使われるし、承認欲求のためにあえて晒したり読みもしない本を買って並べたりする。本棚晒しはオタクの自撮りと言われるのはそのためだ。
どちらかといえば本棚は多ければ多いほど良いといえそうだし、茶室とはちょっと違うかもしれない。マウンティングの道具という意味では同じか。
もう一つ、オタクにとっての茶道具と比較して考えられそうなのは、「ファッション」だ。
これは祭壇(の供物?)も茶室の茶道具も同じかもしれないが、こうした自分にとって価値のある(と信じる)ものを所持することは、心理的な武装として機能する面がある。
両者ともに顕示的消費や見せびらかし消費のシグナリングといえばそうなのかもしれない(お分かりの通り、この文章自体シグナリングを意図している)。
一方で、それだけではない効果もある。内向きとも対外的な効果ともいえそうだが、「持っていると強くなった気がする」効果がある気がする。「お守り」とか「守護霊」とか「トーテミズム」みたいな呪物崇拝とも近いかもしれない。単にブランド物で身を固めるだけならそれは見せびらかしだが、ピアスやタトゥーといったものは見せびらかしというよりも、まさしく武装に近いだろう。勝負下着などもそうだし、ブランド物もそういう効果をもつこともあると思う。ラブライバーが(まさしく)武装したのはこうした効果がゆえなのかもしれない。
ファッションでいうなら、茶道具の選定は、ハイコンテクストなアイテムでコーディネートを固めるといったところか。
思い出すのは、2019年にバズって構文化した「生ハム原木」に関するツイートだ。
生ハム原木が家にあると、ちょっと嫌なことがあっても「まあ家に帰れば生ハム原木あるしな」ってなるし仕事でむかつく人に会っても「そんな口きいていいのか?私は自宅で生ハム原木とよろしくやってる身だぞ」ってなれる。戦闘力を求められる現代社会において生ハム原木と同棲することは有効 えすきち@flowertomanのツイート
茶道具もまさしくこのような心理的武装の効果がある。こうした効果はシグナリングの副産物かもしれないが、供物や茶道具の所有の効果は単に対外的なアピールというだけでなく、こうした効果があるということも事実だろう。
この効果だけに注目するなら、供物も茶道具も、ファッションアイテムも本棚も、あるいは生ハム原木も同じようなものなのかもしれない。
供物と茶道具の比喩は面白いかもしれない。茶道具は主体性がこちら側あり、表現のためのまさしく道具として利用するものでしかないともいえる。
一方で供物は「推し」のためのものであり、信仰する推しのために捧げるものだ。むしろアイテムを道具にしないだけ祭壇趣味はイノセントだと評価することもできそうだが、信仰心の顕示的消費(愛情の表現)というレベルでは変わらない。捧げ物そのものが重要というよりも推しが重要なのであり、祭壇はその信仰のために作り上げる、という点で、主体性のあり方が茶室の主人とは違う。
変に長くなってしまった。というわけで、茶道具を集めたいという話でした。neocitiesでよく見るShrineもこういう感じだよね。
コンテンツ感想コーナー
アニメ
1stガンダムとジークアクスみた
前回の更新で、ジークアクスの2話を観てからジークアクスの視聴を一時中断して、1stガンダムを観始めたって書きました。あれから、1stガンダムはすべて観たんですが、続けて観始めたZガンダムは途中で挫折してしまったんですよね。
Zガンダムで中断したのはホンコンシティの直前あたり。伝え聞くところによると盛り上がるところなんだろうけど、一気見だったからこの辺りで息切れしてしまいました。
1stガンダムはこれまでの人生で何度かみているので、今回が多分3周目だと思うんだけど、名作だけあって面白かった。
全編テンポよく進んで、くどい説明や回想がないところがおしゃれだと思った。セリフや描写で十全に設定の説明はされるんだけど、さりげなかったり遠回しだったりして、注意深くないと見落してしまいそうな雰囲気。
今のアニメではなかなかこうは行かない、思い切った構成とも感じる。いまの長期放送アニメだったらもっと回想や説明が入るよなあと。
回想や説明が多いアニメって、理解の手助けをしているという意味で丁寧な作りともいえるし、一方で、説明過多でくどく洗練さに欠けるともいえる。
もちろん長期アニメであれば、毎週視聴しているわけではない視聴者に向けて何度も説明する理由はわかるし、演出は想定する視聴者層でも変わってくる。クオリティの問題はあれ、これは一長一短というよりなにを優先するかという方向性の問題だろう。
じゃあ1stガンダムはというと、想定視聴者層は低め(だよね?)で当初は4クールの放送を予定していたわけで。メカアニメの文脈で商業的にいろいろなメカを出さなければいけないとか、それ以前のメカアニメとの差別化とか、いろいろな要素はあるのかもしれない。
特に当時のアニメの文脈には疎いんだけど、それにしたって結構ハードじゃないか、と見てて思ったんだよね。
視聴の仕方を考えてみると、今の自分みたいにサブスクで一気見するってのは当時はなかった。こういう視聴の選択肢がないところは今と当時で違うところだけど、今やってる長期アニメにしたって毎週放送してるのは変わらないし、無料の見逃し配信やサブスクでのネット配信もある今、視聴の仕方の違いを考えると今どきのアニメはむしろ選択肢がなかった時代より、回想や説明が少なくてもおかしくないとも思える。
他に考えられる要素というと、アニメ雑誌や学習雑誌での補完もあったのかもしれない。でも、やっぱり、それにしたっておしゃれな作りに感じる。
話を戻して、1stガンダムの話。41話のララァが死ぬ辺りが演出やレイアウトがキレキレでかっこいいんだよね。ニュータイプ同士でキラキラの中ですれ違う構図とか、41話に限らないけどアクションシーンに挟まるキャラのリアクション演出が奇抜なところとか。
そもそも、人口増加で宇宙進出とか、ニュータイプの設定とか、オニール型スペースコロニーとか、いろいろなところから時代を感じる。ララァが死んだあとのニュータイプ時空の描写と宇宙空間に浮かんだ草原のイメージで、2001年宇宙の旅のスターゲイトと惑星ソラリスを思い出したり。
自分自身、宇宙開発の歴史とか、エコロジー思想に興味があるっていうのもあって、こういう部分に目が行ってしまう。
ここまで書いてきて、ジークアクスの話ししてないじゃん。
うーん。まだ消化できてないようなところもあり、感想を書きづらいんだけど、一言で言えば面白かった。
放送してすぐにSNSが盛り上がり、関連したツイートやファンアートがバズっていたのを目にした。別にジークアクスに限った話ではないけど、「おすすめタイムライン」を見ていると、アニメ本編をみていないのに話の筋がわかってしまうような状況はどうなんだろう、と思ったり。
放送終盤にあったポストが印象に残っている。SNSでの盛り上がりはリアルタイムでの消費に特別な意味を与え、作品の評価にもそれが現れるが、後からアニメを見た人はこの盛り上がりを経験していないから作品の見方と評価の仕方が大きく変わるかもしれない、という話。
実際、毎話放送されるたびに、過去のガンダムシリーズや他の作品との関連を語ったり、細かな描写の意味を考察するようなポストがバズっていたのが印象深い。乃木坂オマージュがプチ炎上していたのもよく覚えている。
自分としては、「考察」そのものも考察の内容からもある程度距離を取って見ていたし、真剣に見ていたわけでもなく、ネタバレも含めてジークアクスの盛り上がりをSNSの風景として見ていたような感じだった。
たしかにリアルタイムでこれを経験できたのはよかったのかもしれない。作品を見ても、「お祭り」のように盛り上がるために作られた作品だった気がする。いろいろな意味で贅沢な作品であり、これをネタに盛り上がったのも贅沢な経験だった。
サイコガンダムのリフレクタービットとヴァーニとカンチャナが好きです。
あとドゥー・ムラサメの「自らの意志で進化したボクらこそニュータイプに相応しい!」ってセリフがJ・D・バナールの『宇宙・肉体・悪魔』とかロシア宇宙主義の「能動進化論」みたいで好き。
音楽
6月20日の配信でもちょっと語ったんだけど、年表に追記するために、秋葉原無差別殺傷事件について調べていた。
2008年06月におきた事件。簡単にまとめておいたから、そのうち年表が更新されたときにでも読んでほしい。
その流れで、大澤真幸編『アキハバラ発 <00年代>への問い』を読んた。
昔一度読んだことがあって本棚に置いてあったので、はじめて読んだわけではない。再読したというのが正確。執筆陣が豪華だし、事件が当時どんなふうに語られていたのかわかって面白い。
このなかに、濱野智史の「なぜKは『2ちゃんねる』ではなく『Mega-View』に書き込んだのか?――二〇〇〇年代のネット文化の変遷と臨界点をめぐって――」という論考がある。再読すると、内容がいまの自分の、2ちゃんねる文化について振り返りたいという気分と合っていてよかった。
この事件と論考について、簡単に前提知識と概要を書く。まず、秋葉原無差別殺傷事件の犯人である加藤智大は、レンタル掲示板サイト「Mega-View」の掲示板に犯行前に書き込んでいた。これまでの経歴の中で「2ちゃんねる」でも書き込んでいたということが分かっているのだが、犯行の予告と当日の犯行までの実況は、「Mega-View」の掲示板で行っていた。
この論考は、当時世間で語られていたこの事件の背景にある問題(孤独、非モテ、労働問題など。『アキハバラ発』では労働問題に焦点があたった論考が多い)を認めたうえで、犯人の加藤の問題意識が2ch文化と親和性が高いことを示す(加藤智大の書き込みから日常的に2chを見ていたことが分かっている)。そして、それにも関わらず、なぜ加藤智大は2chではなくMega-Viewで書き込みを行っていたのか、という問いを取り上げる。
結論を要約すれば、2chの「ネタ的」コミュニケーションに満足できなかったのではないか、という推測になっている。Mega-Viewは「自分の話を「素直に」聞いてくれる誰かがいるかもしれない」という期待を抱くことができる場所だったのではないか、と。
2chの特徴について、2chのリンクが中間サーバを介すことで元サイトにリファラーを知らせない「覗き見」文化があること、ニュー速からVIPが誕生した経緯、ニコニコ動画にアップされたVIP替え唄を具体的に出して説明している。
この中で取り上げられているVIP替え歌が印象に残った。歌詞まで引用して取り上げられていたのが、「雌豚」閣下による浜崎あゆみ「BLUE BIRD」の替え歌、「BLUE NEET」だ。
「キモいヲタをもうやめようよ
趣味はネットサーフィンKOOLになろう
もしも彼女できたその時は
僕はVIPをすぐにやめる」
それなんてエロゲ?少し泣いた
親はそっと見守った
ニートの姿
働く季節を待って
「キモいヲタを共にしようよ
広い秋葉原散歩しながら
難しい知識はいらない
メイド喫茶に入ればいい」
「キモいヲタを共にしようよ
ニートに辿り着くんだとしても
もしも親が死んだその時は
飯を食うためムショで生きる」
そう言って僕は少し泣いた
こらえきれずに親も泣いた
BLUE NEETな替え歌wiki - BLUE BIRD
作詞は「ホライゾソ先生」、歌唱が「雌豚閣下」。雌豚閣下は当時人気だったらしいが、知らなかった。2009年に一時動画をほとんど消したが復活し、2021年には「ローズパンナ」として活動をはじめているようだ。
論考では軽くながらも丁寧に解説しており、浜崎あゆみという「リア充」を象徴する歌手のヒット曲の歌詞を自虐的なネタで書き換え、それを本物そっくりに歌うアイロニー、などと表現していてとても良くわかる。
「本物」のほうのMVが、まさしくリア充感溢れていておもしろい。
論考に話を戻すと、当時2008年までに2chについて語られた文献として、北田暁大の『嗤う日本の「ナショナリズム」』と鈴木謙介の『暴走するインターネット』が参照されている。
『暴走するインターネット』のほうは2002年の本で、ちょっと前にさらりとだけ読んでいた。2chについての記述を雑にまとめると、アメリカ同時多発テロ事件で、2chの露悪的なコピペがアメリカの安否確認サイトに機械翻訳して添付された件を取り上げて、コピペの形式を、「ネタ的コミュニケーション」として分析していた。
「ネタ的コミュニケーション」を、「すべてがネタであるかのように振る舞うコミュニケーションの形式」と規定している。話が一貫しているわけではない思いつきじみたレスの応酬や、テンプレートへの言及を重ねて行われるコミュニケーションは、すべてが「ネタ」として扱われているという。
2005年の『嗤う日本の「ナショナリズム」』は端的に言えば、アイロニーの感性の系譜を描き、その現在形として2chを取り上げている。電車男的なベタな感動への志向とネトウヨのアイロニーの共存関係について、アイロニーが自己目的化したことが屈折したロマン主義を生み出したという。
濱野智史は北田本について、2chのこうした「ロマン主義的シニシズム」は外部の敵(中国や韓国)をネタにすることでつながり、暴走するリスクを抱える、と整理している。一方で、VIP替え唄は、内向的に自己言及的な形でお互いをネタとして見出し、自虐的な笑いの対象にしていると指摘する。
細かい話を書きすぎてしまった。この論考の筋を無理矢理整理してみる。
まず、秋葉原無差別殺傷事件を語るにあたって、その犯人である加藤智大について、大澤真幸の論を引きながら理解しようとする。大澤真幸は『不可能性の時代』で1968年の連続ピストル射殺事件の犯人である永山則夫、1997年の神戸連続児童殺傷事件の少年Aとを比較した。
永山則夫は他者からの評価という都市の「まなざしの地獄」に苦悩し、少年Aは郊外の誰からも見られない「まなざしの不在」に苦悩したという対称性があるという。ここから、加藤智大については、この両者の苦悩を抱えていたと図式化する。リアルでは容姿に関する苦悩を抱え、ネットでは無視される苦悩を抱えていた。
そして、濱野お得意のアーキテクチャについての分析で2ちゃんねるとMega-Viewを比較する。2ちゃんねるは匿名性とリファラーを知らせないリンクという2つの構造で「覗き見」文化を生み出したが、VIP替え歌の例を挙げて、匿名のまま互いにお互いをネタにし合う自虐的(覗き見つつ、覗き見られる)な風潮に変容してきていると指摘する。
そして、タイトルの問いに戻る。加藤智大はといえば、過去の書き込みにもあるように、2ちゃんねる文化との親和性が高かった。だが、事件前には2ちゃんねるではなく、Mega-Viewに書き込んだ。
加藤が書き込んだのはMega-Viewの掲示板のひとつであるコテハンユーザーの多い「究極交流掲示板(改)」だった。Mega-Viewはレンタル掲示板サービスとして多くのユーザーを獲得していたが、カスタマイズ性や管理権限が高いため、それぞれの掲示板からMega-Viewというサービスは意識することなく利用できた。そのため、Mega-View自体のユーザー数は多くても、それぞれの掲示板はマイナーな存在であり、Mega-Viewの存在感も薄いものだった。
タイトルの問いに答えるならば、2ちゃんねるという場は素直なコミュニケーションというよりも「ネタ」を中心にした場であり、「ネタ」に満足できない加藤がMega-Viewの掲示板に書き込んだのは、Mega-Viewの掲示板を自覚的に選択したかしていないかはともかく、マイナーかつコテハンの多い掲示板だからこそ「自分の話を素直に聞いてくれる誰かがいるかもしれない」という期待を抱かせる場所だったからなのではないか、というのだ。
実際に読んで見ればわかるが、Mega-View論というより2ちゃんねる論という趣きが強い。「なぜMega-Viewに書き込んだのか」という問いではなく、「なぜ2ちゃんねるに書き込まなかったのか」という問いが中心になっている。
「2000年代のネット文化の臨界点」という最後の節がこのことを表している。わかりやすい部分だけ引用してみる。
2ちゃんねる的なコミュニケーション作法や文化は、日本のインターネットにおいて、常に巨大な存在感を持ってきた。もちろん、多くの人々はそれに反感を示してきたが、その一方で、多くのネットユーザーたちをその文化圏に《包摂》してきたのもまた事実だった。しかしKは、いかにもその文化圏の住人にふさわしかったようにも思われたが、そこからは零れ落ちてしまったのである。
この後、印象深い部分が続く。
「想像を続けてみる」と断っておきながら、加藤智大が秋葉原を犯行現場に選んだ理由について書いている。すなわち、加藤智大にとって、2ちゃんねる文化的な自虐的な「ネタ」で満足できてしまう人々こそが、ある種「リア充」たちよりも羨望の的であり、憎しみの対象だったのかもしれない、というのだ。
加藤智大は「キモいオタを共に」できなかった。
長々と書いてきたが、ネット文化の年表を作っている中で、自分自身がどんなものに影響を受けてきたのか振り返る機会が度々あった。
インターネットに入り浸り、インターネットのなかで人格を形成してきた自分にとって、2ちゃんねる文化から受けた影響を良くも悪くも自覚することが多いのだ。
ここで「2ちゃんねる文化」というとき、2ちゃんねる上の文化だけを意図してはいない。特に2ちゃんねるの「まとめサイト」に影響を受けた文化も含んで使っている。
まとめサイトと2ちゃんねるを同列に語るべきなのかについて、SNSで度々炎上しているところをみる。まとめサイトの記事をyoutubeで動画化したものが大量に再生数を稼いでいる現状をみるに、そうしたものだけをみて2ちゃんねるを語る人に批判的になる気持ちはよくわかる。まとめサイトだけを見て2ちゃんねるを語るのは違う。
一方で、まとめサイトは2ちゃんねる文化と切り離して語れるようなものでもない。まとめサイトが生まれてきた経緯を考えても、まとめサイトから流入して定着したユーザーが多いだろうことを考えても、あるいはかつてもっていたまとめサイトの影響力の大きさについて考えても、2ちゃんねる文化とまとめサイトは切り離せないものだと思う。
「2ちゃんねる文化」というものをどう考えるかにはいろんな考え方があるだろう。そもそも、2ちゃんねるといっても様々な掲示板やスレがあり、スレ単位でもノリが違うことは多々ある。2ちゃんねる文化として取り上げられるのはせいぜいニュー速、嫌儲、VIP、なんJで、それ以外の板はあまり挙げられない。
特に最近、2ちゃんねる文化を意識したのは、オモコロチャンネルで「お世話になったインターネットについて語る」動画がアップされていて、それを見たからだった。
正直なんとなくオモコロに対して距離感を感じていたので、この動画をみるのも抵抗があった。この動画を見たのは年表につかえるネタがないか探す義務感からだ。
見てみると普通に面白かったのだが、自分がなぜオモコロに距離感を感じていたのかなんとなく分かった気がした。2ちゃんねる文化についてほとんど触れていないのだ。ニコニコ動画についてもそこまで触れていないのが面白い。
まず、サイト名である「オモコロ」の屈託なさが気になる。サイトのデザインや「あたまゆるゆるインターネット」なるコピーについてもノリが気になってしまう。
例の動画のタイトルは正確には「【懐古厨乙】お世話になったインターネットについて語るスレ」で、明確に2ちゃんねるを意識しているわりに、ほとんど2ちゃんねる文化に言及していないところも気になる。
変に粗探しするようなことをしてもしょうがないし、自分がオモコロと距離をおいている一番の理由は単なる逆張り(人気だから)なので、2ちゃんねる云々は気のせいなのかもしれない。
話をもとに戻してまとめていこう。『アキハバラ発』の濱野智史の論考は面白かった。この流れで『嗤う日本の「ナショナリズム」』や『暴走するインターネット』も少し読み返してみたが、両者とも2ちゃんねる文化の重要な要素として「ネタ」という言葉を挙げているのは納得感がある。
振り返ってみれば、かつて自分が「ねらー」のノリのどの部分に魅力を感じていたのかというと、自身の境遇さえも笑い飛ばす暴力的なアイロニーだった気がする。
それは確かに、傷を舐め合い互いに慰撫し合うホモソーシャルな露悪趣味だった。しかし、潜在的な10万人の加藤智大の一人として、そこに救われていた面があったことは覚えているべきだと思う。
最後に恥を忍んで書いておくと、どっちかというと、2ちゃんねるそのものよりまとめサイトのほうばかりみてました。どうか嗤ってほしい。
適当に話し言葉風で書きはじめたら、いつの間にか「だ・である調」になってるんだけど、これはなんなんだろう。癖?
それはそれとしてこれくらいにしといてやる。